2008年05月17日

不定期連載小説『今井と宮崎』第二話  3

「一緒にバンドやんねえか?」
 後ろの席の森が声を掛けて来たのは、未だ、茹だるような暑さの残る高校2年生の夏休み明けだった。

 サイドバックと言われる、前髪の半分を垂らして、もう一方を後ろに撫で付けた森は所謂「不良」で、クラスの中では(今井のような大人しい人種には)恐れられていた存在だ。ギターを弾く兄貴に焚き付けられた彼は、クラス内で誰彼となく誘っていたらしいが、彼とつるむと時に鉄拳制裁がある為、みな難色を示したらしい。ヴィジュアル的に若年寄の今井を誘ったのは、「こいつなら断らんだろう」と踏んでのことだった。其れ迄、家族との夕食に歌番組を観るくらいしか音楽遍歴の無かった今井は、ウンとも寸とも言わなかった。先ず、森への怖さがあった。固まって了った。黒縁眼鏡の奥の小さな目は、真ん丸になり、もっと小さく見えた。
 達磨さんが転んだ状態の今井を見て、森は重大な宣告をした。「じゃ、決まりな」と。此の一言が、今井の残りの高校時代の方向を決めた。
 メンバーは4人、シングルギターのオーソドックスな編成である。
 ギターは森、小さい頃から兄貴のギターを触っていたらしく、中々上手いもんだと今井は思っていた。ドラムスは森が吹奏楽部から無理矢理引っ張って来た西田、ジャズの持ち方らしい左手のスティックが恰好いいなと気に入った。ヴォーカルは、高校に隠れてホストのバイトをしていた奥田、客に嘗められまいと買ったピンクのセーター姿が苦手だったが、バンドの中心ナンバーのB'zやComplexにはぴったりの歌い方だった。
 そして、ベースは今井、ズブの素人である。何しろ、楽器は音楽の授業でしか触ったことが無い。最初に吹奏楽部の部室で合奏した時、四苦八苦して弾こうとしたが、弦を1本ずつストローク出来ずに森に後頭部を蹴られた。苛められっ子時代が長かった彼は、殴られ乍らこういうもんだと諦める癖があった。俺は殴られる運命にある。楽器が出来ないから森は殴る。では、殴られない為にやるしかない。
 マゾヒスティックな体質もあったのかもしれないが、寝食も忘れてベースに触った。彼の白くて長い頼りない指には、弦が鑢の如くに感じられて、指先が凄く痛かった。1ヶ月程すると指先の皮が厚くなって痛みを感じなくなり、3ヶ月で指のポジションがスムーズに移動出来るように感じられた。もうバンマスの鉄拳制裁も無い。黙々とルートを弾く姿は目立たないから、森も文句を言わなくなったのだ。(此の頃のベースなんて、シンセベースに替わったっていいくらい無味乾燥なものだったと思う)兎に角、マゾ・ベーシストの勝利である。
 森の恐怖政治による調練の結果、12月初めの学祭に参加出来る迄になった。森は不良の女友達(ロングスカーツ)から人気があり、ヴォーカル奥田のお客さんもお忍びでやってきた。意外に盛況である。今迄、ベージュの吹奏楽部の部室しか見ていなかったのに、目の前に人の波があった。明らかに喜色を浮かべて数百の瞳がこちらを見ている。透明人間のように目立たぬ俺が、こんな華やかな舞台に上がったことはあったか?人生のクライマックスじゃないのか?
 今井は、相変わらず黙々とルートを弾き熟し、失敗も3回しか無かった。きっと森にも殴られることはないだろう。
 演奏が終わり、必死に魚屋でバイトした金で買ったESPの緑のプレシジョンを楽屋に置いた時、まだ汗は掻いているが、ふっと肩から力が抜けた。自分に人気があったのではないということが分かった。森には不良のロングスカーツが、奥田には香水の匂いするホステス風の女が、西田には吹奏楽部の仲間が取り巻いていたが、彼の周りには誰も居なかったからだ。ベースは地味な楽器、俺も地味だから、地味の二乗、ステージの華やかさも相殺して了うに違いない。でも、不思議と悔しさは無かった。諦め癖もあったろうが、あの熱狂に包まれた空気を一緒に感じられただけでよかったのだ。

 野音から聞こえてくる音の波が、今井に高校時代をフラッシュバックさせていたようだ。2階建ての駐輪場を右手に、バス停と郵便局の間の坂を上がると、野音はもう直ぐだ。
「うむ?」何かが違う。ギターとベースとドラムの音が流れてくるが、違和感があるのだ。

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